米沢有為会『文化大学』
講演録(平成26年)
米沢有為会会誌第64号(平成26年10月)より抜粋
第8回文化大学は平成25年9月14日、「公益社団法人認可公開シンポジウム」として、東京興譲館寮において開催されました。先ず平山総務部長が「基調提言」を述べ、続いて会員と寮生から多くの意見が出されました。
なお、基調提言の内容は、昨年の会誌63号「特集公益社団法人認定」(32頁)に先行掲載されましたので、本稿では、提言の本文は省略します。この提言を受け、各発言者が述べられた意見・感想等をご紹介します。 (編集者)
◆基調報告
「米沢有為会 新たな船出(公益社団法人)と会員の役割」
~財政基盤の強化が必須、4事業の着実な推進と事務局体制の整備
米沢有為会 副会長 平山 英三
(内容省略;平成25年会誌(P.32)参照)
◆出席者発言
「画期的な出来事 克服すべき課題も」
5年間に亘り公益法人化に向け尽力された平山委員長はじめ委員の皆様に感謝いたします。有為会125年の歴史における画期的な出来事であり、持続可能な発展への一里塚であります。
そこで、これからの有為会はどうすればよいのか皆で考えることが大切であります。2050年には人口は1億人を割り、3人に1人が高齢者という超成熟社会に近づきつつあります。公益社団法人になりプレステージの向上により寄付金も集め易くなり、会員の所得税や法人税控除等の優遇措置もありますが、反面公益の目的に寄与するためのコンプライアンスの厳守、経理や会員管理の面での規制や報告の厳格化が求められます。
このところ気になることは正会員と賛助会員の合計数が減っていることと、正味財産(企業では純利益)の減少が続いていることです。社団法人は言うまでもなく会員によって支えられ、会費が主たる収人であります。このため会長在位8年問、開沼理事専任で毎年会員増強運動を推進し、会員並びに寮生OB会、奨学生OB会のご協力もあって会員数は上向いてきました。これからは、休むことのない会員増強運動と公益社団法人として厳しい対応に対処するさらなる事務局の充実は、コーオペレイティブ・ガバナンスの車の両輪であります。これらを推し進めることで会の財政基盤が計られるものであります。
これ以外の課題として、老朽化著しい我妻榮記念館問題、内閣府公益認定等委員会事務局から示唆された給付型奨学金制度の導入ですが、いま日本は相対的貧困率が世界ワースト2位の16%で、大学は2に1人が奨学金を受けており、卒業後も3人に1人が非正規社員として返済困難という現況からして、給付型の検討は必須でしょう。それから収入を補う収益事業の立ち上げや会の活性化のため女性・若者の登用は大事なことです。
最後に付け加えるならば、寮生募集の件です。若者の意識の変化もあり定員割れが続いていましたが、関係者のご努力により好調の兆しが見えてきました。興譲館寮の運営は事業の大きな柱です。今後とも募集に力を入れると共に対象をもっと拡げ例えば関係者紹介による留学生入寮を考えるのも公益に貢献すると考えますが如何でしょうか。
理事会の「可視化」で組織の活性化を
今回与えられたテーマは、「米沢有為会新たな船出と会員の役割」となっていますが、私は、「新たな船出と組織運営」という視点、言い換えれば、組織活性化の原点はどこにあるのか、現在、何か問題で、今後、どのように改善してゆくべきかに焦点を当ててみたいと思います。
次の事例は、払が編集委員会で担当した「東京支部ホームページ」のリニューアルに際して体験した事例です。私は、会の動きを出来るだけリアルタイムに一般の会員に伝え、会員からもタイムリーに情報を吸い上げることで会員の関心を高め活性化すべく、「情報の即時性と双方向性」をホームページのコンセプトにしました。
私は、このコンセプトを軌道に乗せるため、分野毎に情報収集の取り纏めの担当を決め、編集委員会の了承のもとスタートしました。しかし、この役割分担は一向に機能せず、「情報の即時性と双方向性」という構想は、失敗に終わりました。それは、理事と称される人たちの協力が得られず、結果的にこの役割分担は骨抜きにされたからです。
ここで申し上げたいことは、一般会員が、理事会を始めとする組織の情報を出来るだけリアルタイムに共有したいということです。
我々の身体が健康を維持できるのは、何故でしょうか?それは、血管を通して身体の隅々まで血液が流れているからです。この血液が、人体の成長に必要な栄養や酸素を運んでくれるのです。つまり、人間の生命維持活動は、全身を流れる血液が担っているのです。
まさしく、この血液に相当するのが、組織や企業における情報なのです。色々な企業や組織を見てみますと、生き生きした活力のある組織や会社ほどトップから末端まで大変風通しがよく、目的意識を共有していることが窺われます。その結果、組織への忠誠心や求心力が強くなり活力が溢れるのです。
さて、そのために必要なことは何でしょうか。有為会の決議機関であり執行機関でもある、詣わずと知れた「事会」、この理事会が健全に機能することです。現在、理事会での討議内容や、各理事の発言内容は、一般会員にタイムリーに伝わることはありません。
討議内容がタイムリーに公開されることにより、組織全体における情報の共有化が進み、組織の活性化が計られます。即ち、今風の言葉で云えば「可視化」「見える化」することです。
しかし、これら「理事会の可視化」は、当事者即ち理事の皆さんにとっては、好ましからざるテーマでしょう。従って、理事会で積極的に可視化に向けて取り上げられることなく、放置されることが多分に予想されます。まさしく、「会員」が、この理事や理事会の動向を監視することこそ、新法人移行に当って「会員」が果たすべき役割であろうかと思います。ご清聴ありがとうございました。
皆様の意見をお聞きしての所感
このたびの公益法人化は、米沢有為会が寄宿舎運営や奨学金貸与などの育英事業を核とする公益事業運営組織であることを再確認したことに大きな意義があると思います。私自身、新体制下で育英事業部長を仰せつかり重責を感じております。
今日は東京興譲館の寮生が多く参加して有意義な意見を述べてくれました。私自身、かつて東京興譲館寮にお世話になりました。寮仲間と遊び、語り合い、寮母さんに育てられたことがその後の財産になりました。
現在、寮応募者が少なくなっているのは残念です。本会としても認知度を高めるPR活動を行っていますが、現在の寮生諸君には、集団生活という利点を生かし闊達で、高校生たちが入りたいと思えるような寮運営をして欲しいと思います。そして寮生自らも寮のPRをして下さい。
寄宿舎事業同様、奨学事業も制度の魅力アップが課題です。そのためには当会の財務基盤強化が必須です。そのためには、会員の皆様のさらなるご理解と会員増強が必要です。
先ほど今井さんより当会の情報公開が足りないとの指摘がありましたが、当会の運営がボランティア精神で行なわれていることも一因と思います。私自身、仕事の関係で当会活動にあまり時間をさけずにきましたが、最近かなり解放されましたので、育英事業の実態などをまとめ、ご報告するよう努める所存です。
文化大学に参加して~「有為会活動 積極的に」
この度は米沢有為会公益法人化に際し、寮生一同お喜び申し上げます。
報告会であった、第8回文化大学には寮生一同も参加させて頂き、米沢有為会公益法人化の目的や、有為会の未来について考えさせて頂く機会を頂きました。
講演をお聞きしたあとの学生の感想の一部を紹介させて頂きます。
・「米沢有為会の公益法人化は非常に嬉しい。給付型奨学金制度の計画があるようだが、実現すれば学生のモチベーションアップにも繋がるのではないかと思う」
・「公益法人化により、会の活動が活発になるのは喜ばしいと思う。ただ、興譲館寮の入寮者が少ない現状は非常に寂しく、財政的にも厳しいので、入寮者増加のためにも寮生と会員の皆様一同になり頑張りたい」
・「若い理事の方がいないのは残念」
などがありました。
有為会の詳しい活動に触れる機会が少ない寮生ではありますが、この度の文化大学をキッカケに活動に積極的に関わっていきたいと思っております。今後も東京興譲館寮をよろしくお願い致します。(日大文理学部4年)。
寮生の声 ~”寮生活はハッピー”
富樫寮長のコメントにもあるように、第8回文化大学には、寮生全員が参加し寮生活の感想や事業主である米沢有為会にたいする要望など忌憚のない意にが交わされた。
以下、そのなかの一部を紹介いたします。(順不同)
・家賃が安いうえ、安全安心な生活か保たれるのは何にも代えがたい。
・楽しく寮生活を送っている。大変ハッピーだ。
・充実した寮生活を過ごしている。寄宿舎の事業は是非継続して欲しい。
・公益法人の話は参考になった。
・寮のおばさんや皆さんに支えられ寮生活が送られることに感謝している。
・就活中であるが、寮生活は、企業からも評価されている。
・次第に寮生が減り残念だ。増員対策をお願いしたい。
・文化大学など先輩方と交流ができ寮生活は大変有益だ。
・有為会会員に若い方が少ないのは残念だ。・・・等々。
多様性重視で寮生募集を
7月、寮生募集のため米沢興譲館高校及び長井高校を訪問した。このところ減りつつある入寮者の現状を説明するとともに、寮生活の経済的メリットに加え、協調性やコミュニケーション能力など人格形成面でも最近見直されている実情を紹介し、入寮をPRした。 また、今回の募集活動を通して次の感想をもった。
・「残念ながら、現地では米沢有為会のことは余り知られていないようだ」
・「世の中で学生寮の評価は、一次期より見直されている」
・「寮費が高くとも、それなりの設備を整えしっかりした運営をすれば需要はあると思う」
・「これからは、多少なりともふる里に縁があれば、積極的に入寮を勧めて欲しい」
・「総括的に言えば各面で”多様性”重視の生き方が必要だ」
第9回文化大学は平成25年11月16日、束京興譲館寮にて開催されました。講師は「日本のアンデルセン」とも称されております郷土(高畠町)の生んだ童話作家浜田広介のお孫さん、濱田吾愛(わかな)さんにお願いしました。
濱田吾愛さんはフラメンコの研究・普及に尽力されておられ、父上の濱田滋郎氏(日本フラメンコ協会会長)の影響もあり、現在フラメンコ歌手の第一人者としてご活躍のかたわら、スペイン音楽に関する執筆活動もされておられます。
講演後、同伴された、樋口喜邦さんのギター伴奏でジプシーの歌の数々をご披露され、さらに、弘中山美恵さんのフラメンコ踊りの実演は圧巻、フラメンコ独特のリズムと身のこなしに、会場は大いに盛り上がり、大喝采を博し熱気に包まれました。
・演題;「祖父・浜田広介と私の仕事」
・講師;潰 田 吾 愛
広介の目指したもの
祖父・浜田広介の作品は、没後40年を経た今も、ありがたいことに広く読み継がれている。インターネットの「好きな童話」アンケートでも、「ないた赤おに」はしばしば上位に入る。たとえ作者名は知らなくとも、筋を言うとたいてい「知ってる!」という答えが返る。それは、自分の名前よりも作品が世に残ることを望んだ広介の志に適うことでもあったろう。
広介が自身の作品で追い求めたことのひとつは、〈わかりやすさ〉だった。誰にとってもわかりやすく読みやすい文章。それは童話ばかりではなく、広介が残した童謡・詩歌の世界にも生かされた。広介は昭和48年11月に世を去るまで、339篇の短歌を詠んだ。それはやはり短歌を愛した夫人トクらの手により、『沃田広介遺稿集』としてまとめられた。興譲館中学時代の回想から晩年の随想までさまざまな作品があるが、そこにはあたかも短編小説のように、物語が浮かんでくる。
たとえば中学時代、無頼を気取った無銭旅行の最中、はからずも米沢の人に宿をたまわったときの一首。
川原田の中学校の教頭の米沢人よやどたまひたる
また、広介の言葉への感性を感じさせるのは、興譲館卒業に際してのこの一首だ。
これやこの卒業証書前にしてわが思ふことの何ぞ多々なる
しかし、広介生前最後の随筆集となった「折節のうた」に収められている卒業の歌は、少し異なっている。
これやこの卒業証書前にしてかなしきことの何ぞ多々なる
「わが思ふことの」「かなしきことの」7文字が違うだけと言ってしまえばそれだけだが、その7文字が醸し出す世界の違いは大きい。そこに、広介の言葉へのこだわりか感じられとともに、そのリズムがしぜんと読み手の胸に落ちてくるのだ。
受け継がれるリズム
山荘を構えて夏の日々を過ごした山梨県清里高原の風景を詠んだ、
高原のおくつきどころ立ちよれば本の十字架にきすげ花咲く
あるいは「哀しい」「辛い」という直接的な表現を使わずに娘を失った深い嘆きを表現してみせた、
野よ山よこえて果てなくわが行けど駈けくるなれに会ふべくもなし
これらの短歌にも、広介の書くものに共通するリズムのよさは表れている。子らの語るところによれば、生前広介は、原稿を書くとき、節をつけながら原稿用紙に向かっていたという。歌をうたったりすることは得手ではなかったというが、『折節のうた』に母音のリズムの大切さをうたう詩を残すなど、音楽的素養が眠っていたことを感じさせる。広介の童話や童謡に流れる言葉のリズム、語呂の良さは、そうしたリズムヘの関心から生まれたものであったようにも思われる。ふしぎなもので、文筆家の道を選んだ次男・滋郎の文章にもまた独特のリズムに彩られていると、ファンの間で言われている。結婚と同時に家を出て、身近で文章修業した経験は持たない滋郎だが、その文章に流れるリズムは、確かに広介から遺伝したものといえるだろう。さらに、滋郎のひとり娘である吾愛も、広介童話を読んで育った影響からか、幼いころからものを書くのを趣味としていた。幼稚園のころには、「花咲かじいさん」のパロディで広介に「これで跡継ぎができた」と言われたこともある。その後中学時代属した文芸部では、五七調の定型詩で顧問の先生に褒められた経験も持つ。
広介から滋郎へ、滋郎から吾愛へ。三代にわたって受け継がれた文章のリズムは、理屈では説明できない遺伝というほかない。
そして、このリズムは、滋郎と吾愛が現在も深く関わるフラメンコの世界にも大きく関わってくる。
リズムとフラメンコ
スペインの民族芸能であるフラメンコ。これは15世紀末、流れ流れてスペインに辿り着いたジプシーたちが、自分たちの芸を土地の歌・踊りと絶妙にブレンドされてできあがったものだ。持たざる民が身ひとつで始めたものが、徐々に発展を遂げ、店、劇場、ラジオ、テレビ、そして最近ではインターネットの世界まで広がっている。
滋郎は十代のころから「学問好きの学校嫌い」で、ラジオから流れてくる音楽を愛好していた。それが高じて音楽評論の道を歩むにいたったが、特に彼を惹き付けたのが、ラテン・フォルクローレ・タンゴ、そしてフラメンコの調べ、リズムだった。滋郎は独学でフラメンコの研究・普及に力を尽くし、20年前から日本フラメンコ協会会長をつとめている。また吾愛は、フラメンコに関する執筆をおこなう傍ら、フラメンコ歌手としても活動をおこなっている。
フラメンコの〈語り〉
一見自由奔放に思われるフラメンコだが、実はその歌は、広介が愛した短歌、そして今吾愛が米沢有為会の俳句愛好会「漆の実」の活動を通じて親しんでいる俳句と同様、きっちりとした定型詩によって成り立っている。1拍子、3子、6拍子、12拍子などさまざまな拍子のうちに、人生の喜怒哀楽や故郷への思いなどを謳う点では、フラメンコと日本の歌は非常に近い。どこか義太夫節にも通じる〈語り〉が重んじられる点でも、フラメンコと日本の伝統の歌は似ている。もし人が道たで立ってわめいていたのでは、単なる狂人だ。道ゆく人を振り向かせるためには、〈語り〉の力が、歌にもまたそれを支えるギターにも必要なのだ。その幾つかを、実演でご披露したい。
「カラコレス(カタツムリ売りの歌)」
珍しく首都マドリッドの秋から冬にかけての名物を詠み込んだ語り歌。物売りの女性を歌いながら、結局はアンダルシア人賛歌になっている。
なんて焼栗売ってるの
雪と寒さに耐えながら
その靴と靴下があれば
あんたは女王さま
あんたの旦那にとってはね
「タンギージヨ」
カーニバルで知られる港町カデイスの祭り歌。三方を海に囲まれた美しいふるさとを、これでもかと讃え、ほめちぎる明るい調べ。
おまえに誓おう、おれのカディスよ
決して嘘はつかない
離れていても
いつでも胸に抱いているよ
「ファンダンゴーナトゥラル」
ギターと歌との掛け合いが聴きどころの、〈語り〉を重んじるひとふし。短いなかに人生の悲喜こもごもを語る。
おまえの戸口に着く前に
止まってしまったおれの馬
まるでおまえの裏切りを
馬がわかっていたように
ぴたりと歩みを止めたんだ
「ソレア」
〈フラメンコの母〉と言われる重厚な曲。広介自身も母への思いは深かった。近くになくとも常に求めてやまない母の慈しみを歌う。
あんたは智慧者だとみんなが言う
だけどおれにはわからない
だってあんたが智慧者なら
なぜ伝わらぬ、この思い
「セビジャーナス」
アンダルシアの都セビージャを彩る華やかで軽やかな踊りの調べ。
あの女の子は歩いてゆくよ
砂埃の道を
行き帰りの足取りを
勘定しながら
・演題;暴力団追放の理由(ことわり)と法理
・講師;公益財団法人全国防犯協会連合会理事 弁護士 篠 崎 芳 明
暴力団員が減少し、ピークの平成16年の8万7千人が25年末では5万8千6百人になったとのことです。本日は、暴力団追放の理由(ことわり)と法理と題してお話しします。
市民と暴力団とのかかわり
1.許容と利用の歴史(建前と実際の乖離)
日本社会(市民)は、永いこと暴力団(博徒、テキ屋など)の存在を許容し、かえってこれを利用してきました。 暴力団は、もちろん表向きは、反社会的存在としての扱いではありましたが、「毒も使いようで薬になる」のことわざもあり、 便利な存在として、重宝に活用してきたのです。日本には、法は建前、結果がよければ手段を問わないとの文化があり、暴力団の存在と許容は、 法を尊重すべしとする建前と要は儲かればよいとの実利志向の矛盾でした。実例としては、江戸時代の岡っ引き、 目明かしの多くが博徒であったことはよく知れれています。当時の法の下でも禁止されていた賭場の開張を、岡っ引き、 目明かしには「お目こぼし」として黙認したのでした。岡っ引き、目明かしは罷免されれば、賭場の開張もできなくなるため、 無報酬で懸命に岡っ引き、目明しの仕事に尽力しました。二足のわらじとは、法を遵守すべき立場の役人と法を破る博徒を兼職したことへの皮肉です。 つい最近まで日本の大企業が総会屋を活用していたこと、いわゆる地上屋、取立屋も堅気がやくざを利用したものであることはよく知られています。 彼らを上手に使うことは経営者の実力と評価されていました。
2.社会対暴力団(市民に求められる積極的な排除措置)
暴力団問題は、警察対暴力団との構図(刑事事件として取り締まること)であったものが、今や社会対暴力団との構図(市民や事業者が暴力団を社会から追放すること)に変化しています。なぜ市民に積極的な排除措置が求められるのでしょうか。
暴力団追放の理由と法的根拠についてあらためて考えてみましょう。
暴力団壊滅の必要性
1.反社会性の進展
① 知能化の進展
警察は、暴力団の伝統的資金源活動として、賭博、薬物密売、恐喝(みかじめ料)という犯罪的手法を位置づけています。戦後のヤミ市全盛時代は、 この手口で十分に資金を獲得できましたが、警察が暴力団取締り(検挙)を強化するに及んで、伝統的資金源活動は、いずれも検挙リスクが高いことから、 暴力団は、検挙を免れながら大金を獲得できる手口を工夫するようになりました。検挙を免れる口実として便利なものは「民事」という弁解です。 かつての警察は、(行政権限の)民事介入原則を尊重していたことから、民事と抗弁すれば、検挙を免れ、且つ簡単に大金を獲得できたのでした。 例えば、債権回収はなかなか難しく、弁護士に依頼しても勝訴判決はとれるが、無資力の者からの回収は不可能でした。 しかし、暴力団取立屋は債務者を脅すことによって容易に債権回収をしてきたのでした。昭和50年代には、暴力団の強硬な取立により、一家離散、 一家心中に追い込まれる者や、夜逃げ屋という商売ができる社会現象まで発生しておりました。取立報酬は5割が相場ですから、 暴力団取立屋は大きな利益を検挙されることなく獲得できたのでした。そして、暴力団は、バブルの頃は地上げ(土地所有者から土地を買い取り、 借地人や借家人を立ち退かせて更地化する)や不動産取引などに介入(執行妨害)して、立退料などの名目で莫大な利益を得ました。 あまりに被害が大きいことから、民法や民事執行法が改正されたことはご承知のことと存じます。
② 大きな資金が経済社会の根幹に影響
民事に介入して利益を獲得する行為を「民事介入暴力」といいますが、暴力団は、民事介入暴力により莫大な利益を獲得しました。 被害があまりにも大きいこと、莫大な資金を得た暴力団が例えば証券市場にてこれを元手にして株価操作などを行うことなどから社会全体として暴力団 の存在は到底看過できないことになってきました。07年(平成19年)の警察白書は、大きな資金を活用する暴力団はわが国の経済社会活動の根本を浸食 しかねない病理と指摘して、政府として放置できないことを明らかにしました。また、暴力団の資金獲得活動に協力する個人やグループ、すなわち、 暴力団との共生者の存在を明らかにしてその対策の必要性も明らかにしたのです。
③ 弱者が被害者
暴力団による経済的弱者の被害も甚大です。ヤミ金グループ五菱会事件というものがありました。 03年にトップの旧五菱会幹部が警視庁などの合同捜査本部に逮捕され、約97億円の収益を国内外に隠匿していたことが公判で明らかになったのです。 この年ヤミ金の追い込み(強制取立)により3人が自殺しています。
④ 世界一安全神話の崩壊
福岡県には5つの指定暴力団が存在します。北九州の工業地帯の港湾事業から発生した工藤会(構成員約630人)、 筑豊の元産炭地の太州会(同約180人)、中洲歓楽街を拠点にする福博会(同約330人)、久留米の歓楽街を拠点とする道仁会(同約850人)、 大牟田の元産炭地などの九州誠道会(同約380人)です。道仁会から喧嘩別れした九州誠道会との抗争事件では、傘下組織も2派に分かれたため、 双方の組織が地域的にも入り乱れており、福岡市で発生したような発砲事件をはじめ、久留米・大牟田・佐賀県・長崎県・熊本県などで抗争事件 が多発しました。入院患者が暴力団と誤認されて射殺された事件は社会に衝撃を与えました。
2. 国際的要求
日本は民生主義の国として戦後大きく発展しましたが民主主義の基本は法治主義です。民主主義は司法制度が機能することが前提となります。 暴力団は司法制度を否定するものであり、法治国家としてその存在を容認できません。日本は、自由主義国家のリーダーとしてG7のメンバーであり、 アジアに法治主義を広めています。ルールを否定する暴力団はテロの人的ソースになり得るものであり、暴力団の壊滅は、国際的要求でもあります。
暴力団壊滅の条件
1.検挙の徹底と公的規制強化
暴力団の違法行為に対しては検挙の徹底が最善ですが、暴力団は検挙を免れるために巧妙な工夫をしており、検挙の徹底は困難です。そこで、国は、多くの公的規制を工夫しています。
① 暴力団対策法
暴力団対策法は、平成4年に施行。公安委員会が指定した「指定暴力団」に所属する構成員(指定暴力団員)か、暴力的要求行為と総称される一定の行為を行うことを禁止して規制しました。違反者に対しては、中止命令又は再発防止命令が発せられ、この命令に従わないときは刑罰に処することにしました。これまでの法令では取り締まることが困難であったいわゆる違法すれすれの巧妙な行為「グレーゾーン行為」の規制をしました。
② 行動指針(行動指針と業界の自主規制)
政府は、07年(平成19年)6月犯罪対策閣僚会議幹事会申合せとして「企業が反社会的勢力による被害を防止するための指針」を公表しました。
各業界は、行動指針の要請に基づく監督官庁の監督指針を受けるなどして多くの自主的な規制をしています。例えば、全銀協は、平成19年に「反社会勢力介入排除に向けた取組強化について」と題する申し合わせを公表し、銀行取引約定書、普通預金規定などに記載する暴排条項の参考例を加盟各行に通知しよした。
③ 暴排条例
暴排条例は、11年10月1日東京、沖縄で施行され、全都道府県で施行となりました。
粂例ですから、都道府県ごとに内容は異なりますが、共通していることは暴力団への利益供与を禁止していることです。
④ 資金源の封鎖(公共工事からの排除、下請けからの排除)
暴力団に対する規制で最も有効なものは、資金源の封鎖です。国は、公共工事からの排除、下請けからの排除を求めています。
2.個別事業者の対応
企業は、今や暴力団の排除に向けて自主的に施策を講じなければなりません。
契約書中に「暴排条項」を入れること、表明確認書(暴力団員でないことの表明)の徴求は事業者の義務となっています。このことは、取締役の善管注意義務を履行することであり、企業の社会的責任を果たすことだからです。企業が、万一にも暴力団を利用したり、不当な要求を応諾してはならないとのコンセンサスが確立したことから、暴力団と密接な関係がある事業者には社会的非難がなされることとなりました。みずほ銀行暴力団融資事件は大きな社会的非難を受けました。
3. 市民の自覚と対応
以上から明らかなとおり、今や暴力団を社会から追放すべきことは社会的要求であります。市民は、これを自覚して、不当な要求には毅然と対応するばかりではなく積極的に暴力団を壊滅すべく対応しなければならないと考えます。暴力団排除に取り組む市民に対しては警察が積極的に協力し、その警備に万全を来すべきではあります。
紙数の関係で以下は頂目のみにとどめます。
事業者の対応策
1.基本方針の公表
2.表明確約の徴求と契約条項の修正
3.内部統制システムの整備、社内ルールの策定と徹底
4.取引の不開始(契約締結の拒絶)、DBの充実
5.取引の解約(継続的見直し)、旧条項の場合(契約不遡及への対応)、
属性の証明責任(警察照会)、準構成員、暴力団関係企業との認定とその証明責任
暴力団追放の法理
人格権
浜松市 山口組一力一家追放訴訟
道仁会本部事務所撤去訴訟
民事裁判の有効性
1.刑事裁判への架け橋
民事保全の活用
暴力団事務所使用差し止め
自称右翼街宣行動差し止め
2.債務不存在確認訴訟の有効性
3.証拠(録音テープの有効性)
4.強制執行の方法
直接強制
間接強制
・演題;兼続の窮地を救った「かぶきもの」前田慶次の武勇伝
・講師;米沢前田慶次の会会長 梅 津 幸 保
(解説)
パチンコや漫画の世界で活躍している戦国武将の前田慶次が晩年米沢で過ごしていた実在の人物であることを知った慶次ファンが大勢訪れている。
2011年に没後4百回忌供養祭を挙行したところ、全国のファン約1千人が訪れ万世堂森善光寺境内を埋めた。戦国時代に傾奇者として自由に生き抜いた生き方に惚れた全国の慶次ファンは地元では考えられないほどハイテンションである。講師はその地元でガイドをしながら全国の慶次ファンと接している。講師は、慶次のようにかぶくことはできないのでと、派手な陣羽織を着て講演した。毎年6月4日の供養祭には2~3百人は参列する。
(講演要旨)
戦国武将で傾奇者として有名な前田慶次は、慶長17年6月4日米沢堂森で没したと伝わる。
隆慶一郎は学識あふれる風流人、剛毅ないくさ人、風のように自由なさすらい人、したたかでしかもやさしい、生きるに値する人間であるためには何か必要かを、人間が人間たらしめている条件を承知している男。一面、恐ろしい悪戯好き。絶対に身を滅ぼすに決まっている時でも、途方もない悪戯をしてのける。と人物像を描いている。(一夢庵風流記あとがき)
生没不明の慶次であるが、滝川家から前田家に養子となり、殿(義父)利久の後を継ぐし場であった。ところが織田信長から前田家の血の繋がっていないものは前田家を継ぐことはできないとされた。前田家四男の利家が前田家を継いだので、利久慶次親子は城を出た。
慶次はこれ幸いと京都で公家や文人とも交わったことで、和漢古今の書と親しみ源氏物謡、伊勢物語の秘伝を受け辻講釈をした。連歌は当時の第一人者里村紹已に学び、茶道は古田織部正重然に皆伝を受けたという。直江も同じ師匠なので、この頃直江兼続と知り合ったもの。
慶次は前田利家に加勢して、天正年間末森城の戦い、阿尾城の戦い、小田原城の戦いに参戦している。しかし武功についての記述は見当たらない。
慶長3年、上杉景勝は越後から会津120万石に移封となった。この時浪々の身であった慶次は上杉景勝、直江兼続主従に惚れて、上杉家に仕官した。禄高は1千石。上杉景勝は会津において、領地を治めるべく道路普請や、新城の築城を進めていた。これらのことを徳川家康に反逆を企てていると告げ口をしたものがいた。家康は上洛して説明するよう上杉に詰問状を出した。直江はすぐにそんなことはないと反論し、上杉の逆心などはないと返信した。これが世に言う直江状である。家康は激怒し、上杉征伐に北上した。上杉は徳川と与している最上を攻めていた。同時に石田三成が徳川家康の悪行を示して同意を得て西軍を集め、徳川征伐に蜂起した。小山まで進軍していた徳川は、引き返し関ヶ原に向かった。
上杉は直江を総大将として、畑谷城を攻めていた。畑谷城主の江口五兵衛は直江と顔見知りであったので、直江は城を開いて上杉に与するよう話した。江口はそれでは武士の名折れになると戦うこととなった。直江は正面から、慶次は搦め手より攻めた。慶次は城から逃げようとする敵を待ち伏せし、首級28を挙げたという。畑谷城は全滅した。この地方では今でも子育てに「兼続くっぞ」と言って恐れられているとのことである。
畑谷城を攻略した直江本隊は、9月14日長谷京城を包囲した。直江本陣は菅沢山とした。15日最上勢と戦い敵の精鋭300余討ち取った。24日、25日にも激戦であったが直江勢が有利であった。中山口隊か敗走し長谷堂城に来なかったので、戦が長びいた。
9月29日景勝のもとに石田三成の西軍が家康の東軍に9月15日敗れたとの報が入った。即撤退を命じられた直江は、石田が破れたのでは自刃するしかないと覚悟したという。 自刃の覚悟をした直江に、慶次が言った。
「およそ一軍の将たる人は、いたずらに死に急ぐことはない。」「後方の敵は、五百川、水原に協力して押し返す。味方の撤退を進めてくれ。」と言って戦場に向ったという。慶次らの活躍で最上勢を押しやり上杉勢は無事撤退した。この時最上義光の甲に弾痕が残り激戦を物語っている。慶次の活躍で直江は米沢に戻ることができた。慶次は直江の命の恩人となった。それで直江は米沢の城下町を造ることができた。
文化人慶次~武士の嗜み
慶次は京都の一隅にあって、党上貴顕の公家や文人とも交わったことで、和漢古今の書と親しみ源氏物語、伊勢物語の秘伝を受け、辻講釈をした。連歌は当時の第一人者里村紹已に学び、茶道は古田織部正重然に皆伝を受けたという。文禄、慶長頃上京した兼続も同師に師事している。
慶次の雅号は「似生」といい天正10年(1582)「光源氏物語竟宴の会」という書物の講義編集が終わった時の打ち上げの連歌会に出席していることが連歌総目録に記載されている。
また、連歌会を主催していることも判明している。
慶次米沢での生活
慶次は詩歌にも通じており、学者でもあった直江とは気があっていたと上杉将上書上に記されている。慶次については最上戦での活躍もあり、名のある武将として7千石あるいは1万石で召し抱えたいと各藩から招聘があった。
しかし慶次は「天下にわが主は景勝のほかはない」と断ったという。慶次の言い分は「石田に味方した大名たちは、降参すると人質を渡し己の安泰を図る浅ましい人たちである。(中略)景勝殿は関ケ原で見方が敗北しても、弱みを見せず、ペコペコ頭を下げることもなかった。最期まで合戦を続けた大剛の大将である」というのである。慶次の上杉家士官の条件は、「禄高は問わない、ただ自由に勤めさせてもらえればよい」と米沢城郊外で客分として余生を過ごす。
慶長6年慶次は景勝の後を追うように京都を出発した。慶長6年11月19日米沢着。この道中を記した道中日記がある。米沢に着いた慶次は堂森善光寺の前の土蔵に身を寄せたという。その後、山陰に居所「無苦庵」を建てた。濠を廻した屋敷跡が今も残る。生活用水として清水(慶次清水)を掘り、村人と和気藹々の生活を楽しんだ。月見山に登り花鳥風月を愛で悠々自適の余生を過でした。
・慶次の遺跡
居所跡~無苦庵、濠跡、矢竹、生活川水~慶次清水、月見山~堂森山の山頂、一花院跡~慶次の墓所跡という太郎兵衛屋敷跡~当時の肝煎り
・慶次の遺品
甲冑~朱漆塗紫糸威五枚胴具足、甲は編み笠形、肩の張った肩当て【マンチラ】、金の鱗型袖。胴、草摺、肩当てが朱漆塗。
槍~『下坂』銘の総螺鈿つくりの長槍(3.13m)
お面~慶次が彫つたと伝わる。
木彫の徳利~へのへのもへじ刻、編み笠~防寒用総馬の毛、前田慶次道中日記~伏見から中山道経由米沢へ亀岡文殊詩歌百首~慶次の短冊5首、他~茶碗温存生活雑器、自筆の短冊、手紙など
エピソードから見える慶次の姿 ~強きをくじき弱気を助ける心~
① 為政者と言えども滑稽な振る聯いでその心をとらえた。
・利家に寒中水風呂のご馳走
・景勝への土産には土大根3本
・秀吉の前で猿真似などしてかぶいて見せた
② 和尚と言えどもその非道にくぎを刺した。
③ 地元有力者の奢る気持ちを戒めた。
④ 人の腐った心を叩きなおした。
⑤ 使用人の生活習慣を変えた。
⑥ まちの無頼漢を凝らしめた。
⑦ 悪戯心で同僚や町人の度肝を抜く
・脇差を指したまま銭湯に入る
・白い紋付羽織に小さなシラミ紋を付ける
・馬揃いに牛に乗ってゆく
・安田上総介を招待しなぶる
・兜むくりの珍芸に大勢人を集める
身分相応に遊び心でアッと言わせる。慶次の憎めない人間味あふれる行為である。
最後に帰路に描いたとされる無苦庵記を紹介する。
無苦庵記
そもそも無苦庵は、考を勤むげき親もなければ憐れむべき子もなし、心は墨にそめねども、髪結うがむずかしさに、つむりをを剃り、てのつかい不奉公もせず、足の駕籠かき、こものやとわず、7年の病なければ、3年も蓬も用いず、雲無心にして岫を出ずるもまたおかし、詩歌に心なければ月花も苦にならず、寝たければ昼もいね、起きたければ夜も起きる、九品蓮台に至らんと思慾心なければ、八万地獄に落ちる罪もなし、生きるまで生きたらば、死ぬるでもあろうかと思う。
<質疑応答>
Q:慶次、慶次郎のほか利益、利貞などの名前があるがどれが本当の名前か。 A:すべて本当の名前です。ただいつどんな目的で使われたかは不明です。米沢での和歌などの記録では前田慶次利八が使われている。
<下條学長のあいさつ>
武辺だけでなく、文学にも精通していた慶次だからかぶいてていられたのだろう.遺跡や遺物があるということは、1、2年年の生活でなく、最晩年を過ごした証拠であろう。若い人が訪れていることは、これからも受け継がれていくことになり、新たな歴史スポットになること間違いない。機会があれば尋ねてみたい。