米沢有為会『文化大学』
講演録(平成23年)
米沢有為会会誌第61号(平成23年9月)より抜粋
米沢有為会では昨年度(平成22年)、『文化大学』をスタートさせた。担当は東京支部長米野宗禎で年に2、3回を予定している。第1回は副会長で米沢市長の安部三十郎氏の講演でした。 第1回文化大学の案内文から趣旨と概要を拾ってみます。
〈案内文〉
今、世界はもとより日本はグローバル社会の中にあって、各分野で新たな価値を創遣し“チャレンジ”が求められています。
こうした状況の中にあって、米沢有為会のさらなる発展と継続を図ることを願い、恒常的に『文化講演会』を 「米沢有為会 文化大学」(下條泰生学長)の名称で位置づけ、また広く公開し郷土出身者の学生たちが4年間、常時居住する地域社会(調布市)住民(市民)との コミュニケーションづくりと東京興譲館の地域貢献を図り、同時に大災害の時に備え、寮生の安心と安全確保の視点からも交流を図るものです。(後略)
・開催:平成22年11月28(日)、東京興譲館
・演題:若人に期待すること、そして私の役割
・講師:副会長 米沢市長 安部 三十郎
『文化大学』第1回が、11月28日、東京興譲館で開催され、地元入間町一丁目自治会の方々も含め、学生、会員等約50人が聴講した。下條学長から「学生の志を高める場とするとともに、地元の方々とのつながりを深め、さらには日本発展に寄与したい。」との開講の辞、地元の調布市生活文化スポーツ部塚越部長の「若い力を地域の活力アップに期待したい」との来賓挨拶に引き続き安部三十郎米沢市長より最初の講義が行われた。
冒頭「本日は奇しくも、上杉景勝公が会津より綱木峠を越え米沢に入城されたという日です。」と市長ならではのイントロに始まり、自作の紙芝居を駆使し熱のこもった話が続いた。
伊達政宗から始まり、さらに上杉時代を通じての、先人の努力奮闘から、米沢の精神的風土を説かれ、明治になってからの米沢高等工業高校での人造絹糸開発の逸話など、米沢の先進性も強調されるとともに、米沢からノーベル賞受賞者を輩出する夢を掲げるなど学生達にも感銘を与えた。
さらに、有機EL産業の中心となる展望、周囲の山々や田圃を生かし多くの観光客に来て頂く計画、四角のビルではない美しい新図書館を建て市民の文化活動を高揚する構想など、よりよい米沢を発展させ次世代に引き継いでいくという市長としてのビジョンを熱く語られたのも、聴衆の胸に響いた。
安部市長は、東京興譲館のOBでもあり、学生時代の思い出の中で、地元の方々との餅つき大会や芋煮会などで交流があったことに触れ、今後とも寮生と地元の方々との絆が深まることに期待を示した。
地元自治会の高橋兼松会長からは「かつてのように交流ができ、災害時などの助け合いにつながれば」との期待が寄せられた。
講義終了後、参加者全員が参加し懇親会が催された。市長持参の地酒や寮母さんお手製の料理も振舞われ、和やかな中に学生たちと地元自治会の方々の絆を深める機会ともなった。
・開催:平成23年7月17(日)、東京興譲館
・演題:はやぶさに学べ!がんばれ日本!
・講師:上杉邦憲名誉会長
米沢有為会第2回文化大学が平成23年7月17日、東京興譲館において開催されました。
今回は「はやぶさに学べ!がんばれ日本!」の演題で上杉名誉会長に講演をお願いしました。
午後2時30分開演、暑い盛りにも拘わらず、当会会員、舎生のほかにも、上杉のお殿様にお会いできると情報が広まり、地元入間町の方々が多数来られて、用意した椅子が足りないほどの盛況でした。また、調布市からは花角美智子スポーツ文化部長が出席されましたが、偶然にも、米沢のご出身、出席していた会員と同学年、何十年ぶりの旧交を温める場面もありました。
定刻、文化大学世話人、米野束京支部長が司会を務め、高橋兼松入間町一丁目自治会長、須貝英維新会長からご挨拶を頂きました。
司会者から、「はやぶさ」の小惑星探査計画の仕掛け人は、上杉先生であったとの紹介に続き、講演に移りました。講演は、プロジェクターを使い、写真、図形などを多用して、素人には難しい内容を分かり易くするご工夫があって、ご出席の皆様方は最後まで興味深く聞いておられました。
昨年の第60号「会誌」に名誉会長が「おおすみからはやぶさまで」という特別寄稿が掲載されましたが、講義に先立ち読み返し、直接お話しをお聞きすると、はやぶさ成功までの名誉会長、関係者の様々なご苦労が良く分かりました。
1969年末、アポロ飛行士が月面に降り立った頃、わが国は1955年3月、糸川教授の「ペンシルロケット」の実験以来十数年経過していましたが、当時の日本宇宙工学は人工衛星打ち上げの失敗が続き、ようやく翌年の1970年2月、24Kgの「おおすみ」が5回目にして打ち上げが成功したレベルでした。
ちょうどその頃、ドクターコース終了間もない名誉会長が宇宙工学をご自分の生涯の職場と決められたと思いますが、その時には彼我の力の差をどのように感じておられたでしょうか。
奉職後20年、名誉会長は研究員メンバーの中堅を荷っておられた頃、80年後半には「さきがけ」「すいせい」がバレー彗星の探査、70年には「ひてん」による月周回とハードランディングに成功し、わが国は徐々に宇宙探査の実力を蓄え、アメリカに急接近してゆきます。アメリカ、ディスカバリー計画への参加打診は日本研究者達の自信であり、アメリカにとっては対等の競争相手が出来たことになりました。
1996年4月、MUSES-C計画(小惑星サンプルリターン計画)が開始
名誉会長は研究員というより、予算獲得の準備に奔走する時問がこれほど増えた時期はなかったのではないでしょうか。計画はアメリカも未だ手がけたことの無い小惑星からのサンプルリターン、実行には多くの予断できない、未解決問題があっても審査の場では「可能」と言うしかない、その時の心境が「成せば成る…」だったのですね。
2003年5月9日、「はやぶさ」打ち上げ
計画実行のための準備の7年間、数々の予想を超えた難問が発生し、後で考えると「奇跡」としか言いようのない「解決策」が現れて、いまこの発射の現場で、将に万感胸に迫る一時を迎えられたのではなかったでしょうか。
2006年3月 ご退職
2010年6月13日 オーストラリア ウーメラ砂漠で「はやぶさ」のカプセル回収立会。 帰って来たもの、迎えるもの、相方、涙の帰還、分かります。
それにしても、「はやぶさ」は地球帰還まで、関係者はもとより、日本国民を心配させましたね、イトカワ着陸後の行方不明事件と搭載エンジン全ての機能不全の時は、計画失敗もも覚悟されたのではないでしょうか。精進する人間に与えられる「奇跡」なのか?いずれにしろ解決に当たられたチームの方々の努力と叡智に敬意を表します。
MUSES-C計画立案は日本の宇宙工学にとって、宇宙航法・遠隔操作、ロケットはもとよりイオンエンジン・着陸機等、多数のソフト・ハード両方の関係者の方々の創意を実現させ、そしてそれは次代に引き継ぐべき技術を、自らのもとにするという機会を与えることを意図した、計画だったのでしょうか。適切な目標はその計画の成功と同じくらい大事なことだと思いました。
息の長いプロジェクトはその成果を自分の目で確かめられないことが多々あるものですが、創成期の日本の宇宙工学に身を投じ、アメリカとほぼ対等になった「すがた」を確かめられた名誉会長の幸運をお慶びしました。
「はやぶさ」の命名は「狙った獲物をとる姿」又は糸川教授が設計に関係した戦闘機「隼」に依るものだとは聞いておりますが、鷹山公の「鷹」と何か繋がっているのではないか、という想いがあるのです。私の深読みか、今回は疑問が晴れぬままとなりました。
最後に、米沢有為会文化大学学長下條前会長から講師へのお礼のことばがあり、午前中、杉並で上演された米沢市役所主催市民ミュージカル「フェイス」に付言され、「決してあきらめない」という精神が結果をもたらすことを強調された。奇しくも、昨夜、「なでしこジャパン」が最後のロスタイムで同点とし、PK戦を制して女子W杯サッカーで優勝しましたが、監督・選手の気持ちが「ネバー ギブアップ」と報じられました。米沢ではそれを「成せば成る・・・」と言い習わして来ました。本当に「演題」の通りの「はやぶさに学べ!がんばれ日本!」「成せば成る・・・」の1日でした。